短歌批評 「開かれた歌 ―――釋迢空『倭をぐな』をとおして」 

  「開かれた歌 ―――釋迢空『倭をぐな』をとおして」 

 

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 ウンベルト・エーコの『開かれた作品』(1967年刊)の序文は次のような文章からはじまる。

《芸術作品は基本的に曖昧なメッセージ、単一の意味表現(significante)の中に共生する多様な意味内容(significanto)であるという考え方である。(中略)そして以下の論考では(現代の詩学における)その曖昧性こそが明らかに作品の明示的目標の一つ、言い換えれば、他の諸価値にもまして達成すべき価値となっていることを述べる。》

 続いて論考に入ったエーコは、開かれた作品の文化的歴史を駆け足で記述してゆく。

 すでに中世のダンテにおいて、聖書の詩編に対する字義的、寓意的、道徳的、天上的という4つの意識層による多義的な読みがあった。16世紀ルネサンスの古典的形式のもつ静的な確定性と中心軸のある閉じた視点が、17世紀バロック形式のもつ動的な不確定性へと向かう。動きとイリュージョンを追及する結果、受け手としての見る者が絶えず動いて、《あたかも作品が絶えず変貌するかのように、作品を常に新たな相の下に見るように誘うことになる。》

 背景としてあるのは、世界観の揺らぎで、《人間が典則(カノン)の慣例を抜け出て(その慣例は、宇宙の秩序と本質の安定性によって保証されていたのであるが)、芸術においても科学においても、人間に創造的行為を要求する動的世界に直面するからである。》

 ロマン主義的寓話に終止符を打ち、開かれた作品の自覚的な詩学が出現するのは、19世紀末の象徴主義においてである。マラルメエーコは引く。《事物を名指すこと、それは詩の楽しみの四分の三を取り去ってしまうことである。詩の楽しみは少しずつ推察していく幸福から成る。即ち、事物を暗示すること……そこにこそ夢がある。》

 この延長線上での現代文学の開かれた作品としてエーコは、カフカジョイスを論じてゆく。いまそれらを紹介する余裕をもたないが、文学好きの読者ならそのアインシュタイン的宇宙の無限性なじみのあるところだろう。

 曖昧性の哲学的考察としてメルロ=ポンティ現象学サルトルへの言及がある。とりわけ後者の《プルーストの天才は、生み出された諸々の作品に還元されるにしても、それにもかかわらず、やはり、我々がこの作品に関してとりうる可能な観点の無限性、いいかえれば我々がプルーストの作品の<無尽蔵性>と呼ぶであろう可能な観点の無限性と、等価である》は重要だ。

 開かれた作品とは受け手の参加へと積極的に開かれていることを意味している。ついでエーコの論考は情報理論、視覚芸術、テレビ放送へと展開されるが、ここでは割愛する。

 しかし、エーコの論点はなにも目新しいものではない。この一世紀の文学、芸術、哲学、精神医学、科学の潮流や、ニーチェマルクスフロイトフッサールらの業績を思いおこせば、すべては一世紀前に準備、発見されていて、私たちはその達成から逃れることはできないのは自明である。

 それら達成の、もっとも自覚的な継承者の一人ジュリア・クリスティヴァの『記号の解体学――セメイオチケ』(1969年刊)が打ちだしたテクスト理論は、ミハイル・バフチーンの、無意識的な暗部としてのカーニヴァルというポリフォニー(多重奏)原理を展開させたインターテクスチュアリティという概念であるのはよく知られたところだ。これは《どのようなテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もうひとつの別なテクストの吸収と変形にほかならない》というものである。

 クリスティヴァはさらに三次元としての開かれを論じてみせる。《(a)水平的にみれば、テクストにおける言葉は書く主体とその受け手との両方に属している。(b)垂直的にみれば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文学資料の全体へと向けられている。》

 つまりテクストは点でも線でもなく、面から立体へと開かれ、ビッグ・バンのように膨張している。

 クリスティヴァはまた、《フロイトの「コペルニクス的」転回(主体の分裂の発見)は、ある意味では、内面の声という虚構に終止符を打ち、言語にたいするまた言語のうちでの主体の根本的な外在性を考える土台を据えている、ということができる》と、神に結ばれていた一者的主体、単一論理的意味作用が疑問となり蕩(とろ)けてゆく様を総括している。

 

 短歌についてはどうだろうか。もちろん短歌はテクストの一形式であり、詩学のひとつに他ならないはずだ。

 ある短歌商業雑誌における、『読み』についての座談会からの抜粋をもとに考えてみる。歌人Aは次のような言説を行った。

A「塚本邦雄さんの<革命歌作詞家に凭りかかられて少しづつ液化してゆくピアノ>(『水葬物語』)の<ピアノ>は、何かを寓意していると読もうとしても、これは何かほかのものに置き換えにくいんでしょう。ぼくはこういうのがいい歌だと思うのです。何かの寓意に置き換えるのはよくない「読み」だし、また、作るほうも、読者にほかのものに置き換えられるようなうたい方は、避けた方がいいんじゃないか」

B「それは歌の解釈が揺れる揺れないという問題で、揺れる歌はどこか問題があるんじゃないかということになるんでしょうか」

A「ええ、そうですね」

 言説は繰りかえされる。

A「短歌をやっていない、たとえば小説家とか詩人とかが、細かい「読み」を抜きにして、自分の好きなように鑑賞するのはまあ自由だけれど、歌を詠む人も同じようなことをやっているんじゃないか。厳密に読む前に鑑賞してしまう」

 とめどなく言説は繰りかえされた。

A「ごく常識的なことですが、「読み」は表現されていることをきちんと読むということ、表現されていないことは読まないということ。これが二本柱ですね。どちらに片寄ってもいけない。ところが、読み手も生ま身の人間ですから、せっかくこういうことも言っているのに、そこを無視してある部分だけ批評したり、あるいは表現されていないことを、どんどん好き勝手に補足して読んでしまう」

 これらの言説には、およそ三つの問題があるだろう。

 第一に、曖昧性、揺らぎを認めず、明快さをよしとしているため、意識的に文学として表現されたことの他は認めようとしない。従って、多義性をおぞましきものとし、分裂した主体にも読むことで参加する受け手に対しても、閉ざされる。

 第二に、歌の神髄は実作者にしかわかるものではなく、部外者の読みは取りあげるに足らない戯言にすぎないとの見下(みくだ)しである。従って、歌を実作しない詩人、俳人、小説家、評論家、哲学者などの読みを信用せず、異ジャンルの批評的活性化から、閉ざされる。

 第三に、「読み」という語が今や求道的な意味合いをおびていて、解釈や鑑賞を越えた奥義としての色合いとなっている。従って、奥義を身につけたと自認する実力者の締めの言葉は権力を発揮し、階層構造は暗黙知として維持され、閉ざされる。

 断っておくが、歌人Aは特定の固有名詞ではない。まさにロラン・バルトの《いたるところ、あらゆる方面に、さまざまな首長、巨大な組織や微細な組織、圧制的な団体ないし圧力団体が見られ、いたるところで、《権威をおびた》声が、きわめて権力的な言説を、傲慢さから発する言説を、はばかることなく聞かせているからである》というタイラント的な権力機械でしかない。

 短歌に関わったことのある者なら、一度でも歌会に参加したことのある者ならば、似たような言説を聴かされたことがあるだろう。かくして、いたるところで《権威をおびた》声を聞いた歌人たちは見事に閉じてみせる。

 相手にされない異ジャンルの才能たちは短歌についてもう論じようとしない。短歌は特殊な歌壇村でのフェティッシュな下着なのだ。短歌に入ってきた若い人たちも、いつしか目をそむけ黙って出ていってしまう。残った者たちの非開放系で短歌は居心地良くぬくぬくと純粋培養され、この百年の伝統は見事に保たれてゆくが、その護送船団は海ではなく池を気持ちよく航行しているにすぎない。

 たとえば、寺山修司が短歌から離れていったのは、この閉ざされ感と無縁ではない。寺山は短歌と関わることで己の精神が閉じ、幼稚な謹厳実直さで手垢のついた内面の声へと硬直してゆくことを嫌ったのに違いあるまい。そうして、いつしか目をそむけ黙って出ていった、ただそれだけのことである。

 もともと短歌は、五七五で開かれたものを七七で閉じる傾向にあった。下句七七によって、物語や感情を時間の内側に閉じて完了してしまう。俳句が切断、未完成により現在に向かって開くのに対して、短歌は情をまとめあげるように過去へと説明しきらずにいられない。

 間違えないで欲しいのだけれども、社会詠、海外詠、時事詠だから開かれているというわけではない。それは歌の対象が一見広がりを抱えているというだけで、さきほど紹介した水平軸、垂直軸においてポリフォニックなテクストを織りあげているかとは別問題である。海外詠ではあっても見事に日本社会、それも歌人仲間のルールの則って閉じられた短歌は多いし、社会詠であっても自己完結的であって歴史に向かって開かれていないことがままある。逆に、一見日常詠のようであっても開かれた短歌であることは可能だ。

 思いめぐらして欲しいのだが、言語芸術以外の音楽、美術、演劇、ダンスなどでは、実演者と評論家ははっきりと分離している。実演者は評論などせず演技で示す。言語芸術においてはそこまではっきりと分離していないが、しかし、小説や詩が実作者だけで批評され、論じられてきたならばどれだけ貧相で精妙さと思想性を欠くものであったかは想像もつかないくらいだ。優れた評論家や異ジャンルの人間との刺激――記号学者が小説を、社会人類学者が詩を、精神分析家が劇作を――があってこその言語芸術の今日である。

 

 ここで、具体的にひとつの開かれた短歌をとりあげてみたい。歌人は具体を好むからだ。さきほどの座談会で、歌人Aが「これは磔でしょう」と、「血」の一語にとらわれて(それ自体はかまわないのだが、いけないことには)他の「読み」を否定してかかり、ただひとつの読みに決定したがった、釋迢空の歌である。

 

 基督の 真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より  (『倭をぐな 以後』)

 

 字面だけを見るならば、と書きはじめてみて、字面だけでもこの歌が単純ではないとすぐに気づく。

 まず、主語の不確定による。歌人はことあるごとに言われる。「主語がないときは私(・)が主語です。私、とわざわざ書く必要はない」と。私は作者以外ではなく、一枚岩的な主体を疑っていない。こうも言われる。「ひとつの歌に主語はひとつである」と。単純を、ひとつことだけを真っ直ぐに言うことが潔いのだ、とのたまわれる。またこんなことも言われる。「どちらの意味でもよい、などという不真面目な態度は一生懸命に歌っている人を馬鹿にしている」と。そんな歌人は精神の鍛えと清めの場から退出すべきと宣告される。

 しかし、戒律という禁忌は破られるために存在する。

「キリストの(が) 生誕(磔刑)の裸体の血の(ように赤い)肌を(が) 私(キリスト)(女子供ら)(魔(モノ))が(を)見ながら笑った。雪の中より、私(キリスト)(女子供ら)(魔(モノ))が」

( )の言葉が自在に入れかわることで意味のポリフォニーが増殖し、カーニヴァルの時空が出現する。

「基督の」の「の」にしても、「血の肌(ハダヘ)」が「血の肌を」でないことにしても、直感の大切さを信じた迢空の、ヘ音とリ音が音叉のように交錯する不気味さが通底した呪術といえよう。

 一字アキや句読点は表記法の問題というばかりではなく、詠いの音のためなのか、思考の区切りのためなのか、いずれにしろ流れをせきとめたり、息を吹き入れたり、溜息を吐かせたりといった、まるで愛弟子の布団にしたしたとにじり寄り、皮膚呼吸すら許さぬほどに覆い被さると、ひそかに相手の息遣いを支配してゆくサディスティックな営みで己の肌の表面から魂を吸いとってしまうようだ。

 そこにあるのは心の深い谷間、意識の窪み」であり、一字アキや句読点によって、因果も対立も情調すら襞のように折り畳まれ、閉じられるようで実は無限に開かれる、ライプニッツモナドが、予定調和として閉じられていることと宇宙に開かれていることとの背理を、捩れの襞として解いてみせるのに似ている。

 ベルニーニ作『聖テレジアの法悦』の彫刻の聖衣の襞のようにエロティックであり、同じくベルニーニによる聖ピエトロ大聖堂の祭壇の柱のごとく、見る位置ごとに主語を変換させ、詠む人から読む人へと欲望を転移しつつ螺旋を描いて天上へと昇華させてしまう。

 キリストの血からゴルゴダの丘を想うのはよいが、それはむしろ、ベツレヘムの厩において赤子イエス・キリストの赤い肌に未来の救世主ではなく罪びとイエスの脇腹の槍傷の赤い血を多重映像として人々が見てしまったと軽やかにとらえてみたい――軽やかさを軽蔑するのは、19世紀的悪弊だ。

 一首全体が、性欲でも、恋愛でも、寓話でも、日常でも、家族愛でも、同胞愛でもあるような、そしてそれらすべてでもあり、かつないような、混沌とした喩。

「見つゝわらへり」の笑いを、気味悪いととるかただの悦びととるか、いずれにしてもそれは身代わりとなって死んでいった者としての、いかさま師としての、狂人としての、まれびととしての、勝者の宗教の子としての、呪術者としての、キリストであり、詠う主体の堅固さともろさの分離の境界に読み手もまた浮遊する。フレイザーに触発され、リルケを愛した迢空は境界を自在に往き来できる橋渡し役、シャーマンであって、しかも相互的対話としての歌の言霊をも操った。

 もちろんここには超一流の学者折口信夫としての、しかも敗戦を経験し、最愛の思いびとを失った不世出の民俗学者としての、日本の宗教、神道天皇に対するキリスト教の原罪、贖罪という思想を引きつけてのイロニーも色濃いだろう。『イザヤ書』にある《そはなんぢらの手は血にてけがれ なんぢらの指はよこしまにて汚(けが)れ なんぢらのくちびるは虚偽をかたり なんぢらの舌は悪をささやき》の血の意味を骨身から知っているのは迢空だ。

 息を吹きかけてくるプロンプターとしての迢空は、そのスケッチ好きなところからしクロソフスキーの近親である。

 だいいち、迢空がたったひとつの読みなどを信じて歌を作ったと信じることのほうが、己の「読み」を過信した「鑑賞」ではないのか。人口に膾炙した『日本文学の発生 序説』や『女流の歌を閉塞したもの』から見るのもよいが、斜めから見てみよう、眇(すが)めで。

 釋迢空のもうひとつの顔、二面性といってよいのか悪いのか、入れ子のような折口信夫、その折口の『死者の書』は無意識の世界を含み、しかもそれが個人の無意識だけでなく共同体の集合的無意識というユング的領域にまで入りこんでいる。その作者注釈とされる『山越しの阿弥陀像の画因』というエッセイにこうある。長くなるが重要なので引用する。

《……何とも名状の出来ぬ、こぐらがつたやうな夢をある朝見た。……書いてゐる中に、夢の中の自分の身が、いつか、中将姫の上になつてゐたのであつた。……まるで精神分析に関聯した事のやうでもあるが、潜在した知識を扱ふのだから、其とは別だらう。が、元々、覚めてゐて、こんな白日夢を濫書するのは、ある感情が潜在してゐるからだ、と言はれれば、相当病心理研究の材料になるかもしれぬ。が、私のするのは、其とは、違ふつもりである。もつとしかつめらしい顔をして、仔細らしい事を言はうとするのである。……まづ第一に、私の心の上の重ね写真は、大した問題にするものはない。もつともつと重大なのは日本人の持つて来た、いろいろな知識の映像の、重つて焼きつけられて来た民族である。其から其間を縫うて、尤らしい儀式・信仰にしあげる為に、民俗々々にはたらいた内存・外来の高等な学の智慧である。》

 折口特有の粘着質な語りだが、ここには折口(迢空)の決心を示す幾つもの重要な語がある。「こぐらがつたやうな夢」、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするものはない」、「いろいろな知識の映像の、重つて焼きつけられて来た」、「はたらいた内存・外来の高等な学の智慧」である。つまりここには、主体の分裂があり、こぐらかった個人の深層としての夢、日常現実の私など問題にならないほどの、垂直軸としての多重映像たる民族の身意識的記憶、水平軸として働きかけてくる内存・外来の開かれ、それらを文章に移そうと、コカインを鼻につめ、鼻血をぽたぽたとしたたらせて原稿用紙に四八時間つづけて向かっていたという折口がいる。

 そのナルシシズムは紅白の対比を好む。聖と俗、天上的なものと地上的なものとの対比、屈折したボードレールの蜜と毒との悦楽にも似た死と背中合わせの共存。古代は、芸能は、浄と不浄として我々の血に流れこみ、体内をめぐっている。めでたき紅白とは、雪の肌の白さと逃れがたい血の紅。口腔に染みついた鉄の味が忘れられない。

 たとえば折口の『身毒丸』にもこうある。《身毒は板敷きに薄板一枚敷いて、経机に凭りかゝつて、一心不乱に筆を操つてゐる。捲り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れてゐた。源内法師は居間に戻つた。その美しい二の腕が胸に烙印した様に残つた。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫れた様を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。そのどろどろ蕩けた毒血を吸ふ、自身の姿があさましく目にちらついた。》

 迢空には白い肌にふと見入ってしまう瞬間がある。そのうえ血の紅に魂を奪いとられる民族の宿命のような瞬間が。

 歌集『倭をぐな』の題名ともなった昭和18年の連作『やまとをぐな』は、悲劇の征旅に向かうヤマトタケルについて詠っている。『古事記』のヤマトタケルはミスズヒメに向かって、「さ寝(ネ)むとは、吾(アレ)は思へど 汝が着(ケ)せる 襲(オスヒ)の裾に 月立ちにけり」と経血が付いている様を詠うが、ミヤズヒメは、「諾(ウベ)な諾(ウベ)な 君待ちがたに 我が着(ケ)せる 襲(オスヒ)の裾に 月立たなむよ」と返す。そこで寝所に入って媾合する。この不浄が誘因となってヤマトタケルは命を落とすことになった。ここにも死と生が隣り合わせにある。

 迢空は『やまとをぐな』連作で、「娘子の立ち舞ふ見れば、くれなゐの濃染(コゾ)めの花の 裳のうへに散る》とはっきり紅(くれない)のイメージにとりつかれていて、貴種流離譚とまではいかなくとも、思いびとの出征への文学的昇華があるだろう。

 見てきたように『聖書』ばかりか『古事記』や民俗説話とのインターテクスチュアリティが如実だ。

また、連作が開く領域を読むこと、一首から溢れでる物語の構造を感じとることの重要性は迢空自身も言っているところだ。さきの一首を含む昭和25年の連作『冬至の頃』五首を書きだしてみよう。

 

 すぎこしのいはひのときに 焼きし餅。頒ちかやらむ。冬のけものに

 耶蘇誕生会(タンジヤウエ)の宵に こぞり来る魔(モノ)の声。少くも猫はわが腓(コブラ)吸ふ

 基督の 真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より

 年どしの師走の思ひ。知る嬢(コ)らによき衣やらむ富み 少しあれ

 われひとり出でゝ歩けど、年たけて 生肌(イキハダ)光る おどろきもなし

 

 にわかにつつましくも懸命に生きる敗戦国の庶民の世相、にぎわいと喧騒と物寂しさとがないまぜに醸しだされてくる。だがなぜ過越祭という春の祭りではじまるのか。「餅」とは酵母なしパンのことであり「子ヤギをその母の乳で煮てはならない」と同じ混淆排除という旧約聖書の禁忌を意味する。「ひとり出でゝ歩けど」、「おどろきもなし」となってしまった孤独な魂がここにある。

 開かれた歌はブッキッシュであり、心に響かないという日本人の心情に九寸五分でぐさりと刺さる言説には、宮柊二が迢空について述べた、宮らしく実直な言葉が参考になるだろう。《……初めからそれに魅かれたのは、歌の形式と調べと言葉とが深々と融合し、そこに分離感というものがない、そうした短歌の理想型が迢空の歌にあり、それが私なりに感じ取れたからであったと思う。……歌によって人うったえたいのではなく、腹の底のものを引き出す、言いかえれば、生きる思想を言葉として輝かす、そんな希いを持った歌人だったからではなかろうか。》

 

 ここまであえて和歌について触れてこなかった。『新古今和歌集』に代表される中世和歌は、藤原俊成が《源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也》と六百番歌合せで断罪したように、本歌取り、掛詞、縁語、枕詞、先行する物語からの引用はもちろんのこと、無意識的な深層心理や古層がときに未生の物語の生成、変換として垂直軸に織りこまれている、世界に冠たるインターテクスチュアリティであった。水平軸を考えてみても、多くは相聞歌、挨拶歌、贈答歌、あるいは歌合せの左右として詠われたのであり、受け手(文化的な恋する相手、社会的な他者、左右の対、判者など)との相互的な読みの駆け引きや思わせぶりといったプロトコールを知らずしては参加する資格さえなく、ときには藤原定家の「あぢきなくつらき嵐の声も憂しなど夕暮に待ちならひけむ」のように性を入れかえてまで愉しむという高度で都会的な文化が存在していた。しかも人の心とか情とかいった得体のしれないものを表現し、魂を揺さぶってさめざめと涙に溺れさせていたのだ。

 きっと現代という時点で切りとることに性急な現代の歌人たちは、掛詞や縁語など考えた事もないし意識して詠んだこともなく、だいいちインターテクスチュアリティのようなオリジナリティ(というものを個性尊重教育で信じこまされて)のない態度は誠実さに欠けるので、そのように深読みされることは迷惑である、と田舎教師めいて――それこそが近代短歌を支えた層だった――憤るであろうから、和歌に関してまで溯ることをためらってきたのである。だが、T・S・エリオットの『伝統と個人の才能』のようにはっきりと言おう。かつて歌は開かれていた。開かれた歌の伝統から歌人は個人の才能を開かせた。和歌が萎えていったのは、開かれが閉じてゆくことで個人の才能も閉じていたのだ。マニエリスティックな技芸を弄していたようで宇宙に向かって開かれていたのはかつての歌であり、技芸に遊ばずに実直な近代以降の歌もまた、かつての歌が閉じていったような世界にとどまる。

歌人たちは揺るぎない自信に満ちている》と詩人をはじめとして異ジャンルの人々は、歌人は最後は戻って行くところがあるといった態度に感心してしまう。だが、喜ぶことなかれ。半分以上は皮肉だ。

 閉じていることに安穏としている歌人たちに、今こそ次の言葉を、歌の開かれと歌によって我々もまた開かれてゆくと信じて捧げたい。ニーチェの『悦ばしき知識』(“la gaya scienza”)から、《私は醜いものに対して戦いを挑もうとはしない。私は非難しようとはしない。私を非難する者をも非難しようとはしない。眼をそむけること、それを私の唯一の否定としよう! これを要するに、私はいつかは、ひたむきな肯定者でありたいと願うのだ!》

                    (了)

     ***主な引用または参照***

*『開かれた作品』ウンベルト・エーコ、篠原資明、和田忠彦訳(青土社

*『記号の解体学――セメイオチケ』ジュリア・クリスティヴァ、原田邦夫訳(せりか書房

*『短歌』(角川書店

*『文学の記号学 コレージュ・ド・フランス開講講義』ロラン・バルト。花輪光訳(みすず書房

*『現代詩手帳 折口信夫・釋迢空』(思潮社