文学批評 「老恋(おいたるこい)と接吻(くちづけ)」

  「老恋(おいたるこい)と接吻(くちづけ)」

 

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1.恋愛文学

 辻邦夫と水村美苗による往復書簡『手紙、栞を添えて 1996.4.7~1997.7.22』の、辻からの第一書簡は、のっけから「なぜ、恋愛小説が困難に?」だった。《先日、同業の友人と話していて、現代は恋愛小説を書くのがますます困難な時代なのではないか、という結論になりました。 もちろん男と女が地上にいる以上、恋愛がなくなるわけはありません。どんな不信の時代でも、恋は生まれましょう。それなのに、なぜ恋愛小説が困難になったかといいますと、一つには、かつての大恋愛が描いたような高揚する情熱が不可能となり、現代人は自己分析的な覚めた意識の眼にさらされなければならないこと、もう一つには、その恋愛を語ってゆく「物語」という表現形式が次第に崩壊していること――この二つが主な理由として挙げられそうです。 恋愛の高揚感が薄れたことと、物語を支える力が弱められたことは、たぶん同じ心的姿勢の二つの面かもしれません。それは素朴の喪失と呼んでもいいものではないでしょうか。 現代は様式が失われた時代ですが、もともと様式とは、時代なり地方なりの集団的な好みが、ある一定の傾向となって表現されたもので、それを成り立たせるには、素朴な意識がどうしても必要です。現代の様式喪失は、こうした意識の素朴さを失って、すべてを批判の対象とした結果といえるように思います。》

 これは短歌においても同じで、古代からの相聞という祝祭的かつ儀礼的な様式の喪失は、唱和、連歌の凋落を招いたが、現代短歌もまた恋歌の困難さに直面している。本居宣長が『排蘆小船(あしわけおぶね)』に《いましめの心あるはすくなく、恋の歌の多きはいかにといへば、これが歌の本然のをのづからあらはるゝ所なり、すべて好色のことほど人情のふかきものはなきなり。千人万人みな欲するところなるゆへにこひの歌は多き也》と述べたにも関わらず。

 一方、折口信夫は『恋の座』を「うらやまし。おもひ切時 猫の恋(越人)」の芭蕉評からはじめ、「きぬ〱〱や あまりかぼそく、あてやかに(芭蕉)」「かぜひきたまふ声の うつくし(越人)」の連歌附け合いの鋭い感覚、深さとかるみを解読した。さらに「日本恋愛文学の歴史」として《千載集時代から新古今集期へかけて、短歌における「恋歌(コヒカ)」は、其以前のものよりも確かに進んでゐる。つまり文学としての立ち場を発見したことである。個人経験としての愛欲を述懐し、恋情を愁訴する態度から離れて、如何に美しい恋愛の心境があるか、其をとり出し、表現しようとする、文学としての立ち場を発見したことであつた。だが其は、徹頭徹尾文学に終始してゐて、生活内容が欠けてゐた》と論じたあと、《日本人の恋愛の表現法は、専ら此「魂(タマ)ごひ(○○)」――迎魂(コヒ)――以外になかったのである》と口移しするごとく語ったが、なるほど折口の言うとおり、《ともあれ、「恋」は、日本文学の中、一朝一夕にかたのつかぬ(、、、、、、)主題であつた》のは間違いない。

 

2.三島由紀夫ポール・ヴァレリー

 三島由紀夫『近代能楽集』中の『綾の鼓』は能『綾鼓』を典拠とする。七十歳になる老小使岩吉から華子への百通めのラブレターは取り巻きの男たちに読みあげられてしまう。《金子 「思いは日ましにつのるばかり、老いさき短い身を、ひねもすさいなむ恋の鞭(しもと)の傷あとをいやすには、ただ一度の、ただ一度の接吻(くちづけ)……」おそれ入っちゃったな。ただ一度の口づけだってさ。(一同、爆笑)/戸山 え? ただ一度の口づけ? ずいぶん慾のない人だな。》 三島の短編小説『志賀寺上人の恋』は『俊頼髄脳』『御伽草子』『太平記』『とはずがたり』などで語られた「志賀寺上人説話」という高齢、高徳の僧の、京極御息所への恋から織りなされたもので、御息所の手と上人の手とのあえかな触れあいがある。なぜか論じられないのだが、三島は「老いたる恋」を書割にして生涯倦むことがなかった(近代日本の作家は、荷風、谷崎、川端でわかるように、老いの性欲を晩年の主テーマとしてきた)。たとえそれが恋と呼ぶよりも愛欲・妄執であったにしても、老いの情熱に関心を抱き続けた。たとえば『愛の渇き』の弥吉、『金閣寺』の老師、『禁色』の同性愛作家檜、『宴のあと』の初老の女かづ、『春の雪』の老女蓼科、と枚挙に暇がない。おそらくは祖母の溺愛、歌舞伎への幼いころからの関心が源泉に違いないが、『志賀寺上人の恋』にみられる老いたる恋の、恋愛/信仰、プラトニック・ラブ/邪淫妄執、悲劇/滑稽の相克といった、イロニカルな悪の花のバロックが三島を魅了したのだろう。地中海的明晰さを好んだ三島が、その対極にある歌舞伎を《何かこのくさや(、、、)の干物みたいな非常に臭いんだけれども、美味(おい)しい妙な味がある》と噛み締めたように。

 ここで地中海的明晰さの詩人、知性と意識的創作の人ととらえられてきたポール・ヴァレリーを想うことは唐突であろうか。それも五十歳以降のヴァレリーを。ヴァレリー全集『カイエ編』「エロス」月報で訳者清水徹は、ヴァレリーは中年以降に三度、秘められた愛とその挫折を持ったと書いている。三度目にあたる一九三八(?)~四四年(六十七~七十三歳)のジャンヌ・ロヴィトンとの感情の危機は『わがファウスト』をもたらした。しかしこの『わがファウスト』は、出世作『若きパルク』の彫琢と推敲の努力からの完璧な構造体に比べて「いかにも緩(ゆる)い」とは、ゲーテファウスト』(集英社)の松浦寿輝巻末エッセイだ。《本来、ヴァレリーの世界では、官能性は触覚的というよりもむしろ視覚的な主題として現出する。みずからの鏡像に恋しつつ、しかしいざ手を伸ばして相手に触れようとすると、その指先が水面をかき乱し、恋愛対象の消滅をみずから招き寄せてしまうことになるあの美少年ナルシスの神話へのヴァレリーの執着が示しているものは、対象から距離を置き、それをただまなざしでのみ撫でさすっていたいという独身者的エロティシズムなのである。ところが最晩年の『わがファウスト』の主人公は、眼前の女性の、言葉を聞いていてもその内容を理解しようとしない「すばらしく花開いた耳」に向かってつと手を伸ばし、それに思わず触れてしまう。七十歳を越える老境に至って、視覚的ならざる触覚的なエロスの欲望を、ヴァレリーは初めて前景化するに至ったのだ。(中略)実はこの作品を執筆していた頃、ヴァレリーが或る恋愛事件の渦中にいたことが判明している。(中略)先に触れたこの作品の「緩さ」とは、こうした官能性の主題の前景化の必然的な帰結でもあろう。もはやヴァレリーは、一語たりとも動かしようのないところまでとことん考え抜き、完璧な上にも完璧を期そうなどとは考えていない。》

 いったい「老い」とは幾つからのことなのか。藤井貞和『『源氏物語』の性、タブー』によれば、六条御息所が葵上を彼女の生霊が出かけていってとり殺したのが二十九歳のときであったこと、紫の上が三十歳のときに女三宮が降嫁したことなどから、三十歳は女性が性的関係に終止符をうつべき年であったかと思われる、と推定している。あの「森の下草老いぬれば」の源典侍はせいぜいが五十先であったらしい。芭蕉が「夢は枯野をかけ廻る」と吟じて世を去ったのは五十一歳のときだ。『神曲』を《人の世のなかばにして》と書きだしたときダンテは三十一歳だったが、その二十一年後に死んでいる。ボーヴォワールは『老い』で六十五歳以上を老人と定義した。平均寿命によって老いの年齢も違うだろう。高齢に前期と後期があるという時代において、「老い」は幾つからなのだろう。斎藤茂吉は韜晦とはいえ、四十五歳で「老(おい)にむかふ命(いのち)かすかに生(い)くれども何(なに)におそれて明暮(あけく)れにけむ(『ともしび』)」を、五十歳で「心中(しんぢゅう)といふ甘(あま)たるき語(ご)を発音するさへいまいましくなりてわれ老(お)いんとす(『石泉』)」を、昭和十一年、五十三歳のときに「老(お)いらくの人といへども少女(をとめ)さぶる赤きうめのはな豈(あに)飽(あ)かめやも(『暁紅』)」と詠んでいる。そして昭和二十八年梅の頃に七十歳で死を迎えた。

 

3.『万葉集』/『六百番歌合』

 「老いたる恋」あるいは「老いらくの恋」としては昭和二十年前後の、齢七十に届こうかという歌人川田順のそれが世情をにぎわしたけれど、昭和十一年をピークとした斎藤茂吉の、生存時には秘められていた恋を忘れてはならない。茂吉のそれを語る前に、和歌における「老恋」をみておくべきだろう。どうせなら斎藤茂吉『万葉秀歌』(昭和十三年)にあたるのが一石二鳥だ。

「あぢ(イづ)き無(な)く何(なに)のタ言(こと)いま更に小童(わらは)言(ごと)する老人(おいびと)にして(作者不詳)」は《 一首は、何という愚(おろ)かな戯痴(たわけ)たことを俺(おれ)は云ったものか、この老人が年甲斐(としがい)もなく、今更子供等のような真似(まね)をして、というので、それでも、あの女が恋しくて堪えられないという意があるのである。これは女に対(むか)って恋情を打明けたのちに、老体を顧(かえり)みた趣の歌だが、初句に、「あぢきなく」とあるから、遂げられない恋の苦痛が一番強く来ていることが分かる。》 また「吾(わ)が齢(よはひ)し衰(おとろ)へぬれば白細布(しろたへ)の袖(そで)の狎(な)れにし君をしぞ念(おも)ふ(作者不詳)」の評釈では、老人の恋の歌を三つ紹介して《これは女が未だ若く、男の老いゆく状況の歌であるが、男を玉に比したり、月日に比したりして大切にしている女の心持が出ていて珍しいものである》としている。いづれにも己が恋(弧悲(こひ))が影を落としているのは間違いない。

 『六百番歌合』「恋五」の題に「老恋」が現れる。「老恋(おいたるこい)」、本歌合初出の題か、と注釈がある(『日本文学大系38六百番歌合』久保田淳、山口明徳校注)。六番、左勝定家朝臣、「あか月((つき))にあらぬ別((わかれ))も今はとて我(わ)が世(よ)ふくれば添(そ)ふ思(おも)ひかな」。右寂蓮、「翁(おきな)さび身は惜(お)しからぬ恋衣((こひごろも))今(いま)はと濡(ぬ)れん人なとがめそ」。寂蓮への藤原俊成判が冷徹だ。《判云、「翁さび」「今はと濡れん」事、さまで「身は惜((をし))からぬ」に及(をよ)ぶべし共((とも))聞こえぬにや。》

 九十一歳で永眠した俊成は『千載和歌集』に「老後恋」として「思ひきや年のつもるは忘られて恋に命の絶えんものとは((後白河)院御製)」を撰出し、歌論『古来風軆抄』には「はつ春のはつねのけふのたまはゝきてにとるからにゆらぐたまのを」を志賀寺上人についての俊頼口伝を紹介しながら論じた。

 

4.斎藤茂吉

 茂吉と永井ふさ子とのことに歌人が言及するとき、決まってはじめは口ごもる。塚本邦夫は『茂吉秀歌 『白桃』から『のぼり路』まで百首』で、はじめは《創作は禁忌とする作者には、これらの作の裏附となる恋愛事件(ラヴ・アフエア)があつたらしく》と匂わせ、《作品面では特記にする秀作はほとんど見当らない》と断定するものの、百ページほど繰れば、《昭和九年九月十六日、向島百花園で子規三十三回忌歌会が開かれた。その日以後、茂吉の詠草に、しばしば集中的に、若やいだ恋歌、もしくはこれに準ずる相聞風抒情歌が混ざつて来る》と伝記的記述にのめりこむ。小池光『茂吉を読む 五十代五歌集』においても《しかしスキャンダルに従属しての歌の鑑賞は文学を見誤るからこれ以上の詮索は止めよう》と封印しておきながら、二十ページも行かぬうちに、茂吉日記とふさ子宛手紙の両羽で封印切となる。両者とも、短歌の私(わたくし)性に、仮にも文学にたずさわる者としての引けめを感じて振幅するのか。

 茂吉自身が『暁紅』巻末記に《抒情歌としての主題に少しく動きを認め得るのではないか》と思わせぶりに書いているけれど、『斎藤茂吉選集 歌集四』の佐藤佐太郎『暁紅』解説が、二人の関係を知って苦悩した弟子の筆とは思えないほど、この歌人の作品と同じように衒い、けれんみがなく、冷静沈着、目線が行き届いている。「彼(か)の岸(きし)に到(いた)りしのちはまどかにて男女(をとこをみな)のけぢめも無けむ」「ほのぼのと清(きよ)き眉根(まよね)も嘆きつつわれに言問(ことと)ふとはの言問(こととひ)」「まをとめと寝覚(ねざ)めのとこに老(おい)の身(み)はとどまる術(すべ)のつひに無かりし」「年老いてかなしき恋にしづみたる西方(さいほう)のひとの歌遺(のこ)りけり」など十一首を引用し、《「暁紅」のころに、作者が恋愛したことは今日では周知のことであって、これらの歌は恋愛を背景とすればよく理解される歌である。作者は当時すでに五十四歳の老境であり、相手は未婚の処女である。決して甘いものだけがあるのではない。むしろきびしい葛藤(かっとう)があってこうした作があるわけで、興味的に読むことを拒絶する力があるのも自然である。しかし、「暁紅」の底流に、この恋愛体験がつちかった境地のあることを見のがしてはなるまい、それらが、いままで人の考えていたよりもはるかにこの一巻をみずみずしいものにしている。(中略)相聞といっても抒情詩の必然性に根ざしているのがこれらの作品であり、自ら茂吉短歌に幅をもたらすものであった》と評した。

(「西方(さいほう)のひと」ゲーテの老恋は人口に膾炙したところで、五十八歳でのミンナ・ヘルツリイプへの恋による『親和力』、六十四歳でのマリアンネへの恋による『西東詩集』、七十二歳でのウルリーケへの失恋による『マリエンバートの悲歌』が知られているが、茂吉はふさ子への手紙に、ゲーテは六十歳に近く、ヘルツリイプに恋し、非常に苦しんで、とうとう諦念に入つています、私もまた諦念に入ります、と書き送っている。) 

 同じく佐藤は『斎藤茂吉選集 歌集五』の『寒雲』をこう解説する。《昭和十二年の作に「梅が香のただよふ闇にひとりのみ吾(われ)来れりや独りにやはあらむ」「恋ひおもふをとめのごとくふふめりしくれなゐの梅をいかにかもせむ」「むらぎもの心にひそむ悲しみを発(あば)きながらに遊ぶといふや」「きさらぎの二日(ふつか)の月をふりさけて恋しき眉をおもふ何故(なにゆゑ)」「この国にあふちの花の咲くときに心は和ぎぬ君とあひ見て」等があり、十三年の作に「春されば落葉の中のひとつ萌(もえ)ただひとりのみ恋(こほ)しくもあるか」「吾(わ)をおもふ悲しき友のひとつにて嵐だつ夜(よは)に馬追来居(きを)り」などがあって、「暁紅」以来続いている恋愛体験が背景になっていることが分る。そうした恋愛がつちかった境地がこれらの歌に潤いを添え、いままで人が考えていたよりも「寒雲」一巻をみずみずしいものにしている。》(両解説に共通する《いままで人が(の)考えていたよりも》の「人」とはいったい何者だったのだろうという疑念を抑えがたい。)

 ふさ子との老恋は茂吉の歌にどんな変化をもたらしたのか。ヴァレリーのそれは視覚から触覚への官能の命がけの飛翔を迫ったが、茂吉の場合はどうなのだろう。『赤光』「おひろ」はぎらぎらした脂を表層に浮かべた紅黒の恋の深淵が覗かれる構造体だが、ふさ子との恋を直接(・・)に歌ったものには塚本が評したように見るべきものは少ない。老恋によって茂吉の臭覚が花開いた、とでも書いてみたいところで、塚本はそれをほのめかしたが、ふさ子と出逢った『白桃』「百花園」から「ほのぼのとにほふをとめの」「うつせみのにほふをとめと」のように、大好きな「をとめ」に密着しての「にほふ」が出てきてはいるが、いかにも弱い。

 それよりも《ふさ子さんからもらつた紅梅が咲きました》と手紙に書かれた「梅」に注目すべきである。『暁紅』「紅梅」に「くれなゐに染(そ)めたる梅をうつせみの我が顔ちかく近(ちか)づけ見たり」「まをとめにちかづくごとくくれなゐの梅におも寄せ見らくしよしも」などと詠まれ、『寒雲』「梅」には「くれなゐににほへる梅が日もすがら我が傍(そば)にあり楽(たぬ)しくもあるか」「梅が香のただよふ闇にひとりのみ吾(われ)来れりや独りにやはあらぬ」「恋ひおもふをとめのごとくふふめりしくれなゐの梅をいかにかもせむ」などとある。梅への偏執的なフェティッシュ永井ふさ子著『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』によれば茂吉に《また或る時『子規のものに、紅梅の唇を吸うというのを発見した』など言われた》とあり、梅の鉢をあちこちに移動してやまない歌が気味悪く出没する)が隠喩と象徴によって三十一音を意味と官能を豊かに増幅する方向に「緩さ」をもって働いている。とくに「梅が香のただよふ闇に」の歌は、『のぼり路』「紅梅」の「くれなゐに咲きたる梅(うめ)の香(か)をこめて更けむとぞずる部屋に起き居り」「紅梅の散りたる花をわが手もて火鉢の燠のうへに焼きつつ」にみえるゲーテの諦念には入れない日々を経て、最晩年の『つきかげ』にある「ひとりさめて思ふ中宵(ちゆうせう)を過ぎしころ暗黒(あんこく)の中(なか)の紅梅のはな」「梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし」に至るが、躬恒「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」(『古今和歌集』)から定家「大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月」(『新古今和歌集』)への文学としての立ち場に茂吉「恋歌(コヒカ)」をはからずも導いている。

 また『暁紅』「月」は渋谷から綱島まで来ての逢瀬直後に一人土手を散策しながら作歌されたものらしいが、火照る情事の露に濡れ、乳のようにふっくらとおぼろな月の光をあびながら言葉を紡ぐ悦びの調べが聴こえる。「露の玉高萱(たかがや)のうへに光るまでこよひの月はあかくもあるか」「あらくさに露の白玉かがやきて月はやうやくうつろふらしも」「ひさかたの乳(ちち)いろなせる大(おほ)き輪(わ)の中にかがやく秋のよの月」。これらは『寒雲』の「きさらぎの二日(ふつか)の月をふりさけて恋しき眉をおもふ何故(なにゆゑ)」に照応している。

 

5.接吻(くちづけ)

 ヴァレリーから茂吉へ脱落するもの、それはナルシスである。清水徹ヴァレリーの肖像』によれば、初期ソネット『ナルシス語る』には、「おお わたしのくちづけ 静かな泉へといくたびも投げかけられて」「親しいナルシス! きみの唇はきみの唇に渇えている!」とある。もう一人の私がいるのを見て、とらえようとする絶えざる試み。ヴァレリーも茂吉も玄人はだしの素描を残しているように二人はともに視覚の人だった(そしてもちろんすぐれた聴覚の人でもあった)。茂吉は紅い唇、映画の中の大きな顔、閨房の声を繰り返し歌にしているが、これらは眼と耳による接吻だったに違いない。もともと茂吉は紅赤が好きで、「歓喜天(くわんきてん)の前に行きつつ唇(くちびる)をのぞきなどしてしづかに帰る」に代表される唇の歌も偏執的にいくつか詠んでいるが、ああそれなのにそれなのに、ナルシスはいない。

 昭和十一年一月十八日(二・二六事件の直前)、二人は連れだって浅草観音へ詣でた。エノケンを観て、うなぎ屋に上がる。ふさ子によれば《外に出たときにはすっかり夜になっていた。公園には人気もすでになく瓢箪池の噴水が凍っていた。この池のほとりの藤棚の下ではじめての接吻を受けた。》 茂吉好みがてんこ盛りである。浅草、うなぎ、藤棚、そして接吻。茂吉の随筆『接吻』は、ウィーンの男女の接吻(せつぷん)を一時間あまり見ての《ながいなあ。実にながいなあ》《今日はいいものを見た》で名高いが、すぐあとの接吻考(、、、)では接吻の図象学と、「口づけ」「口すひ」「接吻」の語の起源出典に拘泥している。また、『童馬山房夜話』「娘子軍」では支那兵の娘子軍が出撃前に一々接吻をさせて励ますことを紹介し、幸田露伴との対談では「もう少し全体的にやつたでせう。接吻などはまだろつこいでせう」と、らしさ(、、、)丸出しである。愛を受ける下唇にしか紅を差さない一年めの舞妓のような茂吉の恋の初心さこそ、芭蕉らの恋の座の到達点を忘れ去った明治近代文学の洗練度の低さ、鄙な実生活偏重を代表する野暮さかげんだった(島木赤彦、古泉千樫、伊藤左千夫石原純らは不器用な恋をし、多くは道徳をわめきたてた)。

 さて、プルースト失われた時を求めて』のアルベルチーヌへの接吻の数ページにおよぶ視覚器官と触覚器官の絡み合い(キアスム)の目眩めく細密描写は有名だが、ジャン=ピエール・リシャールプルーストと感覚的世界』(松浦寿輝『欠如と接吻』より)は、《実のところ、接吻が到達したいのは、感動にうち震える生き生きした空間、あえて言うなら相互的な空間、すなわちその接吻に応えてくれるもう一つの接吻の空間である。欲望とは、ここではつねに、欲望への欲望なのである。(…)しかし、現実は、まさしくこうした関係の確立を禁じている。対象(母性的な)は本質的に欠如しているのだ。従って、欲望は、本性上においてもまた、こう認めねばならぬのだ、わたしはつねに、そして限りなく、この欠如に失望せざるをえないのだと》と、幼い話者の母親のおやすみの接吻への渇望を論じている。これはレヴィナス『全体性と無限』「〈エロス〉の現象学」(熊野純彦訳)の《愛撫は捜しもとめ、発掘する。愛撫とは開示する志向性ではなく、探しもとめる志向性である》《官能は官能の官能であり、他者の愛を愛することなのである》の接吻版といえよう。(接吻とは、語り・思考する口唇的なものから乳房を吸う口腔的なものへの回帰でもあろう。ここで茂吉における母、その母性論をする紙数の余裕はないが、『赤光』「死にたまふ母」をみるまでもなく母恋の人であった。)

『綾の鼓』の老小使岩吉は《ただ一度の、ただ一度の接吻(くちづけ)》と手紙に書いて、《ずいぶん慾のない人だな》と揶揄されるが、もちろん三島は接吻ほど欲深い行為はないこと、接吻は決して成就することなく運命づけられた営みであることを知ったうえでそう言わせている。『仮面の告白』の園子との接吻からはじまって三島はずっとその不可能性、欲望への欲望に囚われていた。『春の雪』において、雪の朝の人力俥でのはじめての接吻の描写はプルーストに対抗するかのように二ページにおよぶ。二度目の接吻は桜の樹下だった。《清顕はどうやって聡子の内部へ到達できるのかと思い悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が見られることを避けるように、顔を自分のほうから急激に寄せてきて接吻した。》

 イリガライがレヴィナスの愛撫の現象学を難じた(その批判が正しいかどうかはここでは論じない)言葉(”Questions to Emmanuel Levinas”,in Re-Reading Levinas”(内田樹レヴィナスと愛の現象学』より)は茂吉にすっかりあてはまる。「レヴィナス」の語を「茂吉」に変換して読んでみて欲しい。《レヴィナスにとって、女性的なものとは、単に欲望を喚起するもの、快楽に火を点けるものを表象しているにすぎない。》《異性(それこそが私に言わせれば他者そのものなのだ)へのアプローチにおいて、他者の神秘からこれほど遠ざかった――あるいは接近した――のち、レヴィナスは再び性愛が営まれる当のその場所で、父権性の岩にしがみつくのである。(…)女性的他者はその固有の顔を奪われたまま捨て去られる。その点において、レヴィナスの哲学は決定的に倫理性を欠いているのである。》

 

6.現代の短歌

 五十歳をこえて結婚もしている作者が恋愛を書かないということは小説ではありえない。小池真理子川上弘美林真理子山田詠美も恋愛小説(ばかり)を書いて、いよよ華やぐ。しかし短歌はどうか。栗木京子も小島ゆかりも中堅以上の女性歌人は円熟を恋歌に生かさない。男の場合も同じだが、例外は数度の離婚を諧謔的に素材にさえする岡井隆だ。

 岡井『E/T』はほぼ書き下ろしの百首からなる。当時七十歳の岡井から《年がはなれてゐる「若い妻」をモデルにして歌を書いた》とあるように、短歌の私性(作者の顔が見える)を逆手にとり、情況を意識的に演出、操ることで、印刷され固定された(フェノ=テクスト)恋歌を越えて、作者(われ)と作者の顔を見ている読者とのあいだで限りなく生成されつづける(ジェノ=テクスト)恋歌の炎が青白くゆらめく。『E/T』といえば決まって「夕餉(ゆふがれひ) をはりたるのち自(し)が部屋にこもりたれども夜更けて逢ひぬ」以下の一連六首が紹介されるが、とりわけ茂吉の「暗黒(あんこく)の中(なか)の紅梅」を連想させる六首めの歌「白日のもとにぬばたまの闇の夜の梅こそ孕(はら)めほつ枝しず枝に」と一首手前の「いま一度目をひらく時はかぎりなく無がとりまくといひて眠りぬ」の比喩と技巧と調べによる重層化が、多様な読みへの開放性によって、謎を解くのではなく、謎を深めるエクリチュールに注目したい。他に二首、横書きで梅と闇の歌がある。「梅のすぐむかうに/ふかい闇がある/妻のむかうに//月が/出る/まで」(ここにも月)、「白昼の/世界の隅の/梅園に/闇こそ殖ゆれ/花の屍(し)として」(死のイマージュ)。そして「寝室」「騎乗位」といった直截な語彙の歌や口腔的な食や濡れる歌よりも、「神について」という一連五首には拒絶しつつ誘惑する寂寥のエロティシズム(七十歳の良寛による四十歳年下の貞心尼への春の陽だまりのような相聞歌から遠くはなれて)が「いかにも緩く」横たわっている。「苦しいが受け容れてそしてあたためる無限開放の渓(たに)に居りたり」「あけぼののときを指定して入(はひ)りくる神や たまゆらの金剛の露」「わかき妻のわたしを拒むさこそあれさこそあるべし扉(ドア)に手をかけて」「日曜の午後の河原に在(いま)すとぞ はた食卓の麺麭(パン)に在(いま)すと」「気づくとはあはれ花びらの傷つきてのち在(いま)したる風に気づくを」。虚実皮膜のあわいで、織りこまれたインターテクスチュアリティをほどく悦びとも言えよう。しかし残念ながら接吻の歌はない。

 現代の短歌の接吻は、接吻を達成したことの幸福感、共有された恋心、接吻を待つ精神性を軽やかに詠ったものが多い(「手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来りぬ(近藤芳美)」「一度にわれを咲かせるようにくちづけるベンチに厚き本を落として(梅内美華子)」)。江戸時代まで接吻(口吸ひ)は性行為の一部(歌麿浮世絵春画『歌まくら』「第六図囲われ者」の女の舌、「第十図秋の夕」の男の眼)だったが、明治近代化時、キリスト教の影響などで《芸娼妓との“色模様”とは異質な、西洋風の“ラブシーン”(佐伯順子『「色」と「愛」の比較文化史』)》に変化した。そのプラトニックにいまだ多くの短歌は立っている。しかしここでは接吻の不可能性を追い求めた歌をあげる。

 中城ふみ子には接吻の歌がいくつかあり、なかでも「灼(や)きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ」「背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみづみづとして」が有名だが、むしろ「光たる唾ひきしキスをいつしんに待ちゐる今朝のわれは幼し」が粘液状のものと始原性から女性を感じさせる。他の作者の歌をいくつか引用する。「ひつたりと唇もて唇を覆ふとき肉なる唇は熱持ちており(河野裕子)」「午後。唇(くち)といふうすき粘膜にてやはく他人の顔とつながる(辰巳泰子)」。「くちづけのくちびる四片(よひら)こもごもに思い出すものさぐりおり(松平盟子)」「舌という妙な生きものは触れたがりくちづけすればすぐ触れ合って(同前)」は、触れるものと触れられるものの可逆的な接吻の短歌表現によるエロティックな「開かれ」である。

 

7.恋の火/文学に対する炎

 ふたたび辻邦夫の手紙に戻る。水村美苗の『続明暗』を《それは不可能になった恋愛の情熱を、批判意識の下に持ちだすことによって、つまり素朴喪失を逆手にとって、燃え上がらせた試みと私などには見えます》と讃え、『私小説 from left to right』については《「夕陽妄語」(朝日新聞連載)で加藤周一氏が指摘されたように、日本近代小説の核を作る私小説を素朴存在(an sich)から意識存在(fu(・・)r  sich)へと転化し、(中略)素朴な魂にのみ許される恋の火が燃えていることです》と分析したうえで、《絶望的状況に希望のまなざしが感じられるのです》と結ぶ辻に対し、水村は《もしそのような火が燃えているとすれば、作家の場合、それは異性に対する炎である以前に、文学に対する炎――恋を謳いあげもすれば、死と向かうのを強いもする、文学そのものに対しての思い入れではないでしょうか。言葉というものそのものに対しての思い入れだとも言えるかもしれません》と返事している。

 辻の問いかけから早や十年。すでに辻は世を去り、水村は『嵐が丘』の燃える恋の炎を現代に蘇らす『本格小説』を上梓した。しかしライト・ノベルとケータイ小説はベタな恋愛小説ばかりというに、途中で投げだしたくならないものはない草の原だ。

 二人の言葉は、そして私が持ち来たった老恋と接吻の種火は、やはり読むほどの恋歌がない現代短歌の希望の火となりうるだろうか。  

                                                                (了)

      ***引用著作の典拠は本文中に記載***

斎藤茂吉の歌の典拠は『斎藤茂吉選集』(一九八一年刊。岩波書店)による。