子兎と一角獣のタピストリ(19)“Caress the details,the divined details!”

  “Caress the details,the divined details!”

 

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 r音を転がす、ざらざらした猫の舌の愛撫みたいなナボコフの声。「私たちはロシア散文の巨匠たちに次のような順位をつけることができる。一番、トルストイ、二番、ゴーゴリ、三番、チェーホフ、四番、ツルゲーネフ」と『ロシア文学講義』(以下、「 」はその引用)で話している。ならばトルストイ『人生論』のお説教に辟易していたとはいえ『アンナ・カレーニナ』を読まずにいられようか。読みはじめた二十代の私が、世界文学において最も魅力的な女主人公の一人、白いうなじに黒い巻き毛のアンナの魅力をどこまでわかったのかは疑問だ。しかしいったいアンナの魅力とは何なのか。アンナが恋を知らされたモスクワからペテルブルクヘ向かう夜行列車に乗ったときからずっとそれを考えている。今ならきっとわかる……

 忘れられない魅力が二つ。「複雑な感情」と「誠実さ」。「複雑な感情」が魅惑を深める。「アンナの奇妙に内面的な性情は、初めての登場の際に彼女が演じる二重の役割にすでに認められる。つまり、アンナは優しい気転と女性独特の知恵によって、(兄夫婦の)こわれた家庭生活に調和を回復するが、同時に若い娘(キチイ)の(ヴロンスキーヘの)恋心を踏みにじるという、悪女の役割を演じるのである。」キチイの眼に映るアンナの「肉の引き締った頸筋と真珠[ジェームチュク]の首飾りも魅惑的なら……生気[オジヴレーニエ]にあふれた美しい顔も魅惑的だったが、その魅惑にはどことなく残酷[ジェストーコエ]で、恐ろしい[ウジャースノエ]ところがあった。この「ジ」の繰返し(音声学的にはpleasureのsと一致する)――アンナの美しさの不吉な、蜂のようにぶんぶん唸る特質」という註釈は、いかにも『Lolita』(“Lolita,light of my life,fire of my loins.My sin,my soul.Lo-Lee-ta:the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap,at three,on the teeth.”にみる1とtの愛らしい響き)の作者らしい言葉との戯れである。ときには恋愛の苦しさゆえ意地の悪い表情が浮かびもするが、振子は常に美徳へ揺れ戻る。「自分の行為を秘密の情事に限定してしまうことが、アンナにはできない。その誠実で情熱的な性格は、ごまかしや秘密を不可能にする。」トルストイが自分自身を投影した、大文字で書かれた「良心」の人リョービンすら、肖像画のアンナの美しさに酔ったあとで実物を見るや、許しがたい女のはずなのに《アンナには知性と優雅さと美貌のほかに、誠実さがあつた》と感じてしまうのだが、ネフスキー通りを行交うロシア美人を眺めているとアンナの透明な美しさは私にもよくわかった。

源氏物語』は『若莱』の巻に至ってようやく物語の成熟によりおもしろさを増すが、『アンナ・カレーニナ』でトルストイはその第一編から七人の主要登場人物一人一人(牡蠣とシャブリから快楽を作り出すのが教養の目的だと屈託ない兄オブロンスキー、自分の正しさに満足を覚える夫カレーニン、衝動を満足させるために生きる凡庸なヴロンスキー)の楽器を鳴らし、諸事件はアンナの悲劇的運命の前兆となって交響楽を奏でる。

トルストイの散文は私たちの脈拍に合わせて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる」と芸術家の道具としての時間操作の天才性を賞賛したナボコフは、ヴロンスキーが瀕死の牝馬フルフルを、アンナの不義の肉体を前にしたときと同じ蒼白な顔で「下顎を震わせながら」見下ろしていたことに類似の破壊的転落を見いだす。

「細部の組合せは官能的な火花を発するが、その火花なしでは一冊の書物は死んだも同然である」と語ったナボコフは、 一八七〇年代の夜行寝台車の内部をスケッチして見せ、赤い手提げに注目する。片方が破けた手袋、マフに落ちた細い霜の針、分娩に邪魔なイヤリング、白い毛糸の目をひと目ひと目ひろうきゃしゃな手首、などトルストイはどんな仕草も見逃さず(しかも作者の姿を見せず神のごとく偏在して)素晴らしい細部を物語に織りこんだ。

 ペテルブルク出身のナボコフが見過ごした白いレース、魅力を象徴する神のごとき細部を愛撫してみたい。エンマ・ボヴァリーがロドルフと遠乗りするときの青いヴェール、レオンとルーアンで逢引きするときの黒いヴェールとは違って、アンナは偽りのヴェールを身につけなかった。第一編の特別な二つの円柱、キチイが過大にアンナの魅力を意識する舞踏会の夜の場面と、アンナの心の明暗を不思議な幻像が通りすぎるペテルブルク行きの夜汽車の場面を紹介しよう。

 舞踏会で《アンナは、キチイがあれほど望んでいた紫の衣装ではなく、胸を大きくあけた黒いビロードの衣装をつけ、古い象牙のように磨きあげられた豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、きゃしゃな、丸みをおびた腕をあらわにしていた。この衣装はすべてベニス・レースで縁取りがしてあつた。その頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色すみれの小さな花束がさしてあり、それと同じ花束が、黒リボンのベルトの上にもとめてあって、白いレースのあいだからのぞいていた。》

 そのエルミタージュのように豪華絢爛たる美的貴族主義、芸術的感性は、ドストエフスキーの騒々しい感傷主義からは遠いものだ。夜汽車の席についてイギリス小説のページを切っても《ほかならぬ自分自身が生きて行きたい思いでいっぱいだった》アンナは身が入らない。

 ヴォロゴヴァ駅で停車した汽車から、脱いだばかりのケープとプラトーク(ショール)を身につけて吹雪のプラットフォームに出る。そこでアンナはあとを追って乗車していたヴロンスキーから《心の中で願いながらも、理性で恐れていたまさにそのことを》聞くが、このプラトークはきっと白いカシミア・レースだったろう。

 まだある。駆け落ちから首都に一戻って、劇場に出かけたアンナは《パリで仕立てた、ビロードをあしらつた、明るい色の胸あきのひろい、絹の衣装を着て、高価な白いレースの髪飾りをつけていたが、それは顔をくっきり浮きださせて、そのきわだった美貌を、さらに効果的にしていた。》

 遅れてはいったヴロンスキーは桟敷を見まわす。《それはレースで縁どられた、日のさめるほど美しい、傲然とほほえんでいる顔であった。》 けれど偽善的な社交界は人目につく女にさらし者の気持を味わわせるのだった。

 最後の一日のジョイスに先立つ「思識の流れ」にも一瞬レースが点減する。《プラットフォームを歩いていた小間使いふうのふたりの女が、うしろを振り返って、アンナをながめ、その衣装についてなにやら声高に品定めをしていた。

「あれは本物だわ」そのふたりはアンナが身につけていたレースのことを、いった。》 ささいなものと普遍的なもの、精神的愛情と肉体的情熱のあいだを往き来する本物の女。と、貨物列車が入って来た。手首から赤い手提げを外すのに手間どるアンナ。膝をつく。ここはどこ? 私は何をしている? なんのために?