「花ひらく死への法悦」
松平盟子の歌集をあてどなく読み返していると、幾つかのことがみえてくる。君という語がない。かわって男、恋人を用いる。恋という語が登場しない。抱かれるもない。口づけですら見つけるのに苦労する。与謝野晶子の歌の特徴について、身体性を詠みあげたことと評する松平だが、その松平の歌には乳という語はなく、肌、髪、唇ですらめったに現れない。官能的歌人と思われているのに身体を表わす語句、肉感的な皮膚表現を避けている。と思うと、性愛の体位をほのめかす歌をシネマの一情景のように詠いあげて驚かす。
歌集の冒頭は花の歌で始まることが多い。花は桜、薔薇が多く、水仙、百合、朝顔、くちなし、などが続く。これらの花の歌にはなぜか松平の特徴といわれる華麗さ、軽やかさが欠けている。花のエロス(性の欲動)が松平の歌にも現れていて、ひらくという表現や匂いの描写で立ち昇つてはくるが、より多く、対となるタナトス(死の欲動)の肥沃から花ひらいていることに気づく。幻想の色も濃く重い。
松平の歌集から花の歌を摘んでゆこう。
桜の歌からはじめる。桜に死が寄り添うのは西行を引いてくるまでもない晴緒だから松平だけの特徴とは言えない。しかしここには、崩れ落ちてゆく、やるせない暗闇しかないほどなのだ。
春雨はさくらはなびら抱きて落つさくらのいのち濡れておちゆく 『シュガー』
しきわたる桜花の褥(しとね)いづれ死はわれを鞣(なめ)さむ指の先まで
松平には珍しい濡れたエロスのイメージに、繰り返されて落ちる動きのハレーションがある。「しきわたる」「褥」「死」のシ音で愛撫される感覚は松平が身体部分としてこだわる「指」を物質化してゆき、「指の先」で愛を契った果ての道行を示唆するかのようだ。松平は文楽の愛好家でもあった。
押しひらくちからは雷に秘められて万の桜はふるえつつ咲く 『プラチナ・ブルース』
やわらかく桜は降ると近づけば刃尖(はさき)の光しろざくらばな
「ひらく」「秘められた」「ふるえ」の喘ぐような響きに、「蕾」と「万」、「押し」と「咲く」の、収斂と散乱を繰り返し衝突させるイメージが眩量をもよおさせる。ヅ、バ、ザ、バの四つもの濁音にはさまれた「刃尖の光」には自刃への誘惑と、死の直後に訪れるという光明の内なる輝きがある。
黒桜咲きかえりまた咲きかえり夜をまことに暗くするなり 『たまゆら草紙』
くるしみの深き日に咲く濃墨(こいずみ)のさくら満開真夏の午後も
「咲きかえり」のリフレインとサ音、リ音の涼やかな音が明るさではなく、暗さ、夜、くるしみの深く濃い黒の世界へ導き、舞台が黒衣によって動きだす。「真夏の午後」の一語で「さくら」が夢幻と化してゆく。
高層の窓より見おろす夜桜の氷塊ににる薄暗き白 『うさはらし』
降りたまる桜はいつか石灰の臭いを立てて街に朽ちたり
「氷塊ににる」の喩が見おろす夜桜の無生命、無機質、飾り物めいた浮遊感を表わしている。「石灰の臭い」とはペスト菌でも消毒するために散布されたおぞましき噴霧とその白い飛沫痕なのか。目を射り、鼻を刺す。「朽ちたり」とあるが饉えた腐臭はなく、展翅された鱗翅類の防腐剤の臭いがこちらの脳をも漬けてゆく。
うす甘き八重桜ジャム花びらの透けるかさなり舌を冷やしぬ 『オピウム』
むらさきに桜のけぶるころあいを猫狩り男ふたり連れ立つ
花による味覚への誘いは、生を死へ至らしめ、保存したうえで少量ずつ隠微に味わうジャムというゼリー状の輝きと震えで最高潮に達する。八重桜の襞という重なりの肉感に、「舌を冷やしぬ」の透けた銀の感覚のせめぎあいが松平らしい。甘すぎてはいけない。「うす甘き」が松平好み。「猫狩り男」がふたりいるのではなく、猫狩り男が現れてふたりで、ととることで物語がはじまる。
薔薇は一般的な松平の印象にあっていると思われるだろう。たしかに薔薇園、ローズブーケ、ローズガーデンなどといつた洒落た語句も姿を表わすが、松平の花に対する思いはこの薔薇においてすら特別な香を澱ませてしまう。
いちにちの終わりを熱き湯に抱かれわれは薔薇のごとほぐされやすし 『シュガー』
植ゑられし薔薇とコップに挿す薔薇とあひ応えつつこの夜を散る
まずはエロスにほぐされてゆく。松平の歌は風や空気を感じさせて仄めかしの状態で揺らぐのだが、こと花の歌においては水に濡れて一息にエロスの核心をひらく性急さがあり、それこそがタナトスにまで堕ちていってしまう原因でもあろう。フロイトやユング心理学、洋の東西の神話学や宗教、バタイユの侵犯、近松心中物によるまでもなくエロスとタナトスは欲望の手袋の表裏で語られるが、人は松平の歌にエロスを見てもタナトスは見たがらない。地に根を張る生の薔薇も切花としての死の薔薇も照応しあうのに。
選択を迷うこころもとりあえず壺の暗みへ薔薇を活けこむ 『プラチナ・ブルース』
赤は薔薇、黄いろはミモザ、白は百合、瑠璃は桔梗(きちこう)、わが死の日に飾れ
「壺」という語も好む。喩ととるならば意識や観念の容器であろうが、『失われた時を求めて』のヴァントイユ嬢の、壺が壊れる、の意味合いも捨てがたい。好みの花による装飾。死せる松平は色鮮やかに飾られねばならないようだ。もう一人の松平の、静脈が浮いた手によって。
死者の口に薔薇の実ひとつ含ませる慣(なら)いありしと伊太利(イタリイ)古説話 『たまゆら草紙』
煮つめられしジャムになるまで透きとおる薔薇の魂見つめていたり
花の実は生命体の証でもあるのだが、死と再生の接点として象徴的に扱われている。死はすぐそこに存在する。冷静な視線でエロスを甘やかに加工したタナトスヘの思いはネクロフィリアの甘露を内包している。松平の死は透きとおるような死なのだ。
薔薇枯れて落ちたりピンクのひとひらのシーツがわれの領土と思うに 『うさはらし』
薔薇を吐く女描きしボッティチェリ薔薇の実は腹に鬱然とあるか
「薔薇」と「シーツ」は親しい言葉だ。薔薇の散ったさまは処女のみずみずしさの散華か、悦楽の果ての乱れ模様を思わせるが、松平には珍しい上旬の句またがりと倒置法による躊躇い、結句の一字余りのよるべなさ、「枯れて落ちたり」の病の臭い、「われの領土」の境界意識が訝しい。『プリマヴェーラ(春)』のフローラ(花の女神)の日から溢れでる花を、外へ拡がる生命の息吹きや手に触れるものすべてを花に変える力の顕現と見ずに、腹部へ蓄積してゆく鬱の暗がりや祠へと降りてゆく始原への拘り、ととらえているのはなぜだろう。
水仙のようなラッパ形、卵管形状の硬質な花で松平の花の本質はより顕著だ。はかなさやたまゆらが歌の特徴と言われがちだが、この硬質感は松平の歌の芯を表に露呈している。
激痛がわれのこころに巣食う日は黒水仙のしずかに揺れて 『プラチナ・ブルース』
この真冬恋うものあらば暁闇をほそく剪りつつ咲く水仙花(すいせんか)
「激痛」「巣食う」「黒」の語句だけで、タナトスヘの入口で揺れて手招きする花だと見てとれる。水仙は晩冬の光の底にすっくと咲く花である。姿は孤高なのに群生し、風の通り道を示すようにいっせいに揺らぎ波打つ。「ほそく剪りつつ」に断首の予感がありはしないか。
水仙の匂いは繊(ほそ)きほそき糸うたた寝の夢片々(へんぺん)つなぐ 『たまゆら草紙』
冷えびえと暮るる窓辺に水仙は白金(はくきん)の箔ひらひらおとす
ギリシア神話を持ちだすまでもなく、水仙は夢と結びつき、夢は小さな死の覚醒につながる。花の歌でことさらにリフレインを好むのは黄泉への階段を降りてゆく感覚か。中世和歌みたい趣をなすのは死が生活の基調にあった時代へ寄せる魂の震えでもあろうか。「白金の箔」の松平らしい薄い硬質さ、無機質さが、エロスの艶めいた柔らかさと交錯してタナトスを生み出す蜜の味わい。
白水仙しずめるように恋人はその身をそっとバスに横たう 『うさはらし』
水仙と深く媾(まじわ)りついにまたみごもる夢をあわれと思う
水仙に男のイメージを感じている。ナルキッソスのような青白くみずみずしい裸体を捧げ物として眺めている。エロスの果ての「ついにまた」の悲劇。神話めいてしまうことこそ哀れである。微かにマゾヒスティックな倒錯的悦楽を見てしまうのは錯覚であろうか。
曙光さすしじまに半ば瞑想の水仙が立つ BE SILENT
水仙には中世の修道院の庭に咲くような思索性、瞑想性がある。昼の猥雑な光ではなく、早朝の張りつめた薄明かりを切り裂く、男性でも女性でもないエロスの光は、静けさにひたりつつもタナトスの球根をすでに宿しはじめている。
百合ほど宝石の硬さをもつ花はないだろう。それはダイヤモンドの硬質を好むマンディアルグの愛する花でもあった。
棺には百合、ともしびは白蠟とサラ・ベルナールひとにつたえし 『シュガー』
向きむきに百合は吐息をはきつづけ昼夜別なく蟻(おび)誘かるる
百合の白さは、エロスから遠い清純なイメージで受胎告知の大天使ガブリエルに持たれることで今に伝わる。それは腐ることのない永遠さでもあるが、ひとたび百合を脳髄で腐らせ、甘い吐息を吐かせてみれば、これほどエロティックな花もないだろう。百合自体が白蠟のようであり、ともしびの藁を燃やしている。蟻は時間の砂粒か。情け容赦なく死へと零れつづける。
白百合の枯れる刻々蟻たちはめしべを見捨て地にかえるのみ 『プラチナ・ブルース』
時間を意識している。しかし蟻たちは時間であるとともに快楽ではないか。蟻が渡ってゆくような快楽の愛撫、性から死へのざわめき。宙のエロスヘと地高く茎を登りつめ、むさぼりの果てにタナトスヘ落下する。なぜおしべではないのか。ボッティチェリ『受胎告知』の天使が捧げる白百合には不純なる生殖のための蘂がない。
松平の朝顔は自か青か紺だろう。
ひんやりと青槿(あさがほ)のひらきゆく刻々を死へ赴けり蛾は 『シュガー』
「刻々を」が槿の特殊性を言いえている。人はなぜ槿に時間を見てしまうのだろう。昼顔、夕顔ならば死へ赴く気持ちもわかるが、槿にして死に憑かれている。「ひらきゆく」なのに萎むためにひらいている。クロノス(時間)への無常観こそタナトスヘの第一歩である。蝶ではなく蛾こそ死の国への風貌がありはしないだろうか。
人に言うべきことならねど床下に大槿(あさがお)が口を開けており 『たまゆら草紙』
朝顔は切れめなき肌いちまいをひんやりひらく法悦の息
「口を開けており」の不気味さ。日常生活の足元のすぐ一枚下には口を開けて待っているデモーニッシュななにものかがある。「人に言うべきことならねど」の見せけちならぬ、聞かせけち。意識の深奥の禁忌。「切れめなき肌いちまい」の軽やかで繊細なエロティシズムと「ひんやりひらく」の冷たい美。それはバロックのうす襞を静かに波打たせて天使の矢を受ける聖テレサの法悦のようだ。
あさがおは朝(あした)虚ろの口を開くああというほかなき息をはく 『うさはらし』
ひえびえと霧流れくるその上に大朝顔の輪郭おぼろ
朝顔に顔を見ている。口だけの顔を。食すためではなく、吐息を吐き、愛を吸うための淫らな口を見ている。それは魂が抜け出すための穴でもあろう。
ひしひしと天丼裏に咲きみちる冬あさがおを思う今夜も 『オピウム』
あさがおは口開くとき一滴の燻(いぶし)銀(ぎん)こぼす夜のひけぎわを
初期谷崎の悪魔主義的唯美感覚に近い。しかし谷崎が桜、鯛を好む金の絢爛さ、正当性へと向かったのに対して、松平は燻銀の密やかさに息づく。あさがおなのに夜に拘る。官能の入口であるとともに出口でもある。秘密の水が花に滴り、そして死が零れる。
くちなしもまた硬質のくっきりした白い花だ。
くちなしは水無月によどむ匂い雲ブラウスなどが二分(ふたわ)くる雲 『プラチナ・ブルース』
くっきりとした花だが、低い灌木で見かけるからか匂いの重さからか、よどむ花として記憶に染みつく。眼下によどむのに、見上げる雲の喩が下旬の不思議なイメージとともにおもしろい。
ふかぶかと香りを吸えばくちなしは響(ひび)らうごとく白を濃くせり 『たまゆら草紙』
くちなしは虚ろの光ふかく溜め灰いろ夕(ゆうべ)おもたく香る
くちなしの不透明な白がそのあまりの濃さに灰いろへと沈む。この重さこそ、松平が花に求めるものかもしれない。この世のすべての光と白を溜めこんだ花は香りだけを残して、虚ろな生の深い底なしの淵ヘと沈んでゆく。
降りつのる雨の昏みに溶けこめぬ紫陽花の暗(あん)、くちなしの澹(たん) 『オピウム』
紫陽花に変化のときめきを、くちなしにこぶりな艶を見ることもできようものを、どんよりと濁ってしまう。静けさの意の浩がくちなしの静説さを精妙に表現している。四句からの口当たりのよい音の律動感にもかかわらず、ン音があまりに重い。
松平盟子の花の歌には、作者の心の襞に潜む欲望が、むせるように、重く濃く匂っている。風に揺らがず、濡れて花ひらく死への法悦。
*
一年後、葉桜の季節に、二十三年ぶりの新装版という松平盟子の第一歌集『帆を張る父のやうに』をはじめて手にとった。
二十二歳から二十四歳までの松平を知る悦びにはやって巻頭歌に視線を走らせた私は、思わず声をあげた。
目をつむり髪あらふとき闇中にはだいろゆふがほ襞ふかくひらく
人は誰しも始まりヘと、原点へとたえず回帰してゆく。
神がカオスの泥から人間を創造したごとく、その後の松平に魂の声ともいうべき歌を創造させる、甘美な生と死のミネラルをたっぷりと含有した春泥のようなそれら。
白桜そらへ煮えたつ真昼日の死界のやうな幽(しず)けさをあゆむ
花弁ひろげ蘂ひろげきり洸と散るぼたんの顎(あご)を仰むかせたり
青梅色の獣腐乱せる予感してみづみづしくも蘭あふるる苑(その)
(「プチ★モンド」33号2001年夏号)